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【10月号】「昭和」史の中のある半生 6
2012/12/16

新社会党広島県本部顧問 小森 龍邦
私が小学校に入学したのは、一九三九年(昭14年)のことである。芦品郡岩谷村大字目崎に住んでいたが、出生地が芦品郡府中町大字府中であったため、府中町役場から入学通知が届いた。岩谷小学校は私の家の裏手にあり、校舎の廊下で喋っている児童・生徒の声が聞こえるぐらいの位置であった。
 戸籍というか、住民登録というか、当時はまだずさんであった。そのために1・5キロぐらい離れている府中東尋常高等小学校に入学したというわけである。
 子ども心に、戦時統制がきびしくなり、少しずつ物資が不自由になりつつあるという実感をもっていた。ランドセルは勿論、革製のものを望むべくもなかった。履物は、やっとのことでズックがまだ店頭に並んでいたという状況の頃の小学校一年生であった。
 入学して最初の出来事は、「小森の家は牛殺しをしている」と評判する同級生がいると、親しくしていたクラスメイトから聞かされたことであった。生まれて初めて、顕現的な差別に遭遇したということである。
 被差別部落にもう一人のクラスメイトがいた。その子も、同じことを言われていたようである。
父は、兵隊にとられているとき以外も殆んど地元で仕事をしているということはなく、大きな建設会社の名義人として旅に出ていることが多かった。母の働きで、弟と私と母の三人が細々と生活しているという状況であった。私は子どもなりに、この屈辱を母に知らせて、母の苦痛を増大してはならないと思った。
 もう一人の被差別部落の友人の方は「家に帰ってお父さんに言っておいた」ということであった。おそらく学校当局と「掛け合った」のではないかと思うが、私のところまでは、その結末の次第は聞こえてこなかった。
 小学校三年生の十二月八日の朝のことである。通学路に面する比較的裕福な家のラジオの放送が聞こえてくる。
 「大本営発表、帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋上において、米英蘭と交戦状態に入れり」というものであった。私の記憶では「蘭(オランダ)」というのがあったと思っているが、そのときの「大本営発表」には「米英」だけという録音を聞いたこともあり、どちらが間違いか、いまも私には判然としないものがある。
 軍国少年の心意気というか、「日本はとうとう立ち上がった。戦わねばならない」と、そのとき手に汗を握る思いだったことを記憶している。
 日本の野村、栗栖両大使が、アメリカのハル国務長官と談判していることは、子どもの私の耳にも入っていた。先方は無理難題を日本に押し付けているのだと聞かされていた。だから、立ち上がってアメリカともイギリスとも戦わねばならないと思ったのである。戦後、このときの事情が次第に明らかになるにつれて、アメリカの太平洋艦隊の基地・ハワイを「奇襲攻撃」と言えば聞こえはよいが、宣戦布告をしないで闇討ちをかけたということがわかった。
 「真珠湾攻撃」の九軍神のことに、ラジオも新聞も湧き立っていた。その頃、父はどのあたりの戦場で何をしていたかを次号で書きたいと思っている。 
(安保英賢)
Olive Diary DX Ver1.0

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