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【11月号】文楽あれこれ 4 則藤 了
2012/12/16

さて、大正に入ると、名人竹本摂津大掾が引退し、弟子の3代越路太夫が紋下(座頭)になる。この越路太夫を中心に、2代津太夫系の3代津太夫、2代古靱太夫(後の山城少掾)、美声の伊達太夫(後の6代土佐太夫)と、今日から見ると驚くような顔ぶれなのに、この頃から文楽への客足は遠のき、将来の存続を危ぶまれるようになってゆく。大正の終わりに越路太夫が病没すると、追い打ちをかけるように文楽座は火災により焼失、一時弁天座で仮興業をするが、やがて松竹は四つ橋に外郭鉄筋コンクリートの文楽座を新築する。ここから戦後までが、いわゆる四つ橋文楽座時代である。越路太夫亡き後、3代津太夫が紋下となり、理知的近代的芸風の古靱太夫、美声の土佐太夫と異なる芸風の3人が並び立ち、三味線に6代鶴沢友次郎、4代清六(小説『一の糸』のモデル)、人形に初代栄三、3代文五郎など、3業に名人が揃って、今日では垂涎とも言うべき3巨頭時代が始まるのだが、客足はふるわない。劇評家の石割松太郎によれば、昭和初期、素人で義太夫を語る人口は大阪だけでも優に十万を超えていたと言われる(『人形芝居雑話』)にもかかわらずである。
 この頃から有識者によって、文楽保存が叫ばれ始める。一方、つぶれるのを見越して今の内に少しでも記録を残そうと芸談、聞き書きの取り組みも始まる。(鴻池幸武『文楽聞き書き』等。)中でも、三宅周太郎の『文楽の研究正・続』は、近年岩波文庫に入ったので比較的入手しやすく、興味ある方には一読をお勧めしたい。
 こうした中、あの戦争に突入し文楽の人たちも若手は皆応召していく。長老では土佐太夫、紋下の津太夫が相次いで逝き、古靱太夫が紋下となる。戦争末期には本土空襲がうち続き、ついに文楽座も昭和二十年三月、戦災により消失、多くの名品の人形首(かしら)や衣装が失われた。そして終戦間もなく、人形遣いの一方の旗頭、初代栄三が栄養失調で亡くなる。
 戦後の焼け跡がまだ生々しく残っている中、松竹はコンクリートで外壁が残っているのを幸い、二十二年いち早く文楽座を再建する。このあたりの松竹の努力は評価されるが、他方でもともと薄給であった文楽の人々に新しい動きが起こる。文楽座労働組合の設立である。このあたりのことを詳しく書く余裕はないが、時代の移り変わりと、松竹との契約条件があまりにもひどすぎるというのが、今日から見て最大の原因だと思われる。もともと芸人の世界であるから、上に厚く下に薄いという給料制は当然のこととしてあったが、基本的に松竹との契約は日歩制であり、公演がなければその月の給料は0である。せめて雇いきりなのだから月給制にしてほしいという要求は、今日で見れば当たり前すぎて話にもならないが、松竹は頑としてこれを拒んだ。先に、昭和初期で大阪の義太夫人口十万と書いた。太夫や三味線弾きは、素人の稽古による収入で何とか生計をたてる人が多かったのだが、戦後のこの時期、義太夫どころではない。まして、人形遣いともなれば、つてを頼って寄席にでも出るしかないのだが、それもこの時代では無理な話で、当然の要求とは言えた。松竹も、戦災で手持ちの劇場が大半焼けて、それどころではないという当時の事情はわかるのだが、それにしてもである。

Olive Diary DX Ver1.0

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