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【11月号】「昭和」史の中のある半生
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2012/12/16
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「昭和」史の中のある半生 (7)
新社会党広島県本部顧問 小森 龍邦 「戦争はだまし討ちをしても勝たねばならない」と言う人もいる。しかし、歴史の事実はどうだったのかということをここでは問題にしたいのである。
太平洋戦争は、ハワイの真珠湾攻撃からはじまったと思っている人が多い。連合艦隊司令長官・山本五十六率いる帝国海軍が空と海から不意討ちをくわしたことから「赫々たる戦果」の連続で、国民は興奮状態となった。
しかし、戦後、この戦争の歴史と、日本における天皇制イデオロギー、そのもとにおける軍隊のありようなどを考える者の間に、「宣戦布告」もしないで、敵に打撃を与え、そのことで喜び、興奮していた卑怯な態度を問題にする者が出てきた。
これに対し、日本における反動派(右翼)の立場にある者は、このあたりをどのように弁解してきたか。
十二月七日の夜、在米日本大使館では、飲食をともなうパーティーがあり、その疲れがあって、八日の朝の「宣戦布告」「日米交渉打ち切り」を米方のハル国務長官に告げることができなかっただけのことと破廉恥なことを平然と言ってのけている。
しかし、それが恥知らずな言い逃れということは、戦後、十三〜四歳の私も認識していた。
そして、父の『兵籍簿』のここに目を通すことになって、開戦当時のいきさつの「言い逃れ」が、全く通用しないことを確認することになる。父の行動の日程的詳細である。
「十月二十七日臨時召集‐中略‐十一月十五日宇品港出発。同月十八日上海着。同月十九日呉淞出発。同月二十一日高雄着。同月二十六日海南島口着。同月二十八日三亜着。十二月四日三亜出発。同月八日泰国マレー・シンゴラ敵前上陸」となっている。
このときは、とにかく「簡閲貼呼」という召集(呼び出し)を含めて、一九二七年(昭和二年)から一九四一年(昭和一六年)の十五年間に、八回の召集を受けていることになる。八回目は「昭和十六年九月二十七日臨時召集。同日浄水作業隊編入。同月二十九日船舶輸送司令官ノ隷下ニ入ル」となっている。
つまり、一九四一年(昭和十六年)の召集は、「敵前上陸」の工作をする専門技術者として、南方方面英、蘭に不意討ちをくわせる行動の一員にさせられていたということになる。
ハワイの真珠湾攻撃は、十二月八日午前三時二十分(日本時間)であるが、独立工兵第二十六連隊の父がマレーのシンゴラに敵前上陸をしかけたのは、午前二時(日本時間)であった。
ついでのことに記しておきたいのは、野村大使がハル国務長官に開戦を伝えたのは、午前四時二十分(日本時間)、昭和天皇の『宣戦勅書』は午前十一時四十分であった。
ワシントンと東京との時差は十二時間、だまし討ちの作戦であったことは、弁解の余地がない。連合艦隊は十一月二十六日に千島列島のエトロフ島あたりを通過していた。
御調郡御調町(現尾道市)出身の後藤元飛行士は真珠湾攻撃・「死出の旅路」の心境を、その日記に書いている。私は、それを読ませてもらったことがある。
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