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【12月号】「昭和」史の中のある半生 (8)
2013/01/14

「昭和」史の中のある半生             (8)
  新社会党広島県本部顧問 小森 龍邦   
「大東亜共栄圏」とか「八紘一宇」とか、「鬼畜米英撃ちてし止まん」とか、オウム真理教が、その信者をマインドコントロールしていたように、少年時代の私は勿論のこと、ひととしとった人も、あるいは相当のインテリも、この時代の天皇制イデオロギーを疑っていなかった。ただ、被差別の境遇にあった非識字の祖母が天皇家に対する「おちょくり」のような言葉を平然と吐いていたこと、軍律きびしい状況下でも、父の「上官をなめ抜いていた」態度に、歴史の皮肉と、その中に宿っていた真実を感じさせられる思想=心境的豊かさの中で、自分は育ったのだと思う。
 父に対する九回目の召集は、「昭和二十年三月二十六日臨時召集ノ為船舶工兵第六聯隊補充隊ニ応召。即日帰郷」となっている。例によって、シンゴラ作戦後、「五月三十日急性関節ロイマチス疑ノ為、広島陸軍病院ニ入院」という記録もあることから、経験則に照らして、父は「この戦争につきあわれない」と思ったのであろう。「なぁーに、すぐ帰るよ」と親戚家族に言って、奉公袋をさげて出て行ったが、「即日帰郷」を勝ち取って帰ってきた。
 宮沢喜一(元首相)は、原爆が投下される数日前まで広島師団に在籍していたが、本人も首を傾げるような状況で、東京(大蔵省)に呼び帰されている。彼の場合は、祖父・小川平吉(鉄道大臣)、父の宮沢裕などの政治力で動いたのだろうが、私の父・小森一二は、弁説と末期の戦況を判断し、自分の病名と、舞鶴市の軍港関係の仕事をしていた西松組の配下という肩書を光らせたのであろう。
 宮沢喜一の原爆投下直前の軍歴と、被差別部落出身、非識字者・小森一二(当時、やっと上等兵)の動きを比較勘案してみると、前者は権力による策略、後者は権力の弛緩をぬった虐げられてきた者の機転というべきであろうか。
 一九四五年(昭20年)、私は広島県立府中中学校に入学した。小学校時代のことを回顧してみると、国家権力が国民の戦意を繋ぎ止めておくために、いろいろな手を打っていたことがわかる。
 マレー半島へのパラシュートによる降下作戦、自転車部隊(銀輪部隊と言った)のシンガポールの占拠、山下奉文とイギリスのパーシバル中将の談判の「ニュース映画」など、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
 私はくじ運がよかった。府中東尋常高等小学校に、ゴムボールが一学年に1個ぐらいの割合配給があった。二百数十名の同学年の中の当たりくじは私であった。
 ゴムの産地・マレー半島を占拠すれば、こんなによいことがあるのだと、少年(当時・小国民と言っていた)たちの頭に焼き付けるためであった。
 太平洋戦争の勝ち戦は、そんなに長くは続かなかった。福塩線府中駅にも白布に包まれた戦死者の遺骨箱(中には毛髪とかツメ)が帰ってくるようになった。小学生が駅前に並ばされて、これを迎える回数が増えるようになった。
 町内の明浄寺や慶照寺、光円寺などの梵鐘は金属の出征・供出で、これを見送るところへ並ばされたこともある。
 二階級特進の安田海軍中将(ニューギニアで玉砕)の遺骨も、私は駅前で迎えたことを覚えている。

Olive Diary DX Ver1.0

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