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【12月号】文楽あれこれ 5    則藤 了
2013/01/14

文楽あれこれ 5    則藤 了

 組合発足当初、組合員は紋下豊竹山城少掾ほか数名を除く全員であった。ところが、「文楽の芸人は労働者か。」「文楽はアカになったのか。」という非難的風評が出始めると、一人抜け二人去りして組合員が減ってゆく。松竹がこれに追い打ちをかけて、有力な座員を一本釣りし、さらにその師匠を通して有望な弟子たちを引き抜く工作に出た。こうして文楽座員は松竹派と組合派の二つに分裂してしまう。
 松竹は残った座員で文楽座で興業を続けるが、受領した紋下の山城少掾、これも後に文楽人として最後に受領する吉田文五郎(難波掾)、三味線の清六などを擁するものの、座員の人数は不足、陣容も薄くなり、客足はさらに遠のいた。一方、組合派は政治色を嫌い、名前を三和会(みつわかい=三業が協力し合うという意)と変え、地方興行を中心に活動していく。こちらで客を呼べそうな中心メンバーは、太夫で6代住大夫(現住大夫の父)、呂大夫(後の10代若大夫)、つばめ大夫(後の4代越路大夫)など、三味線は2代野沢喜左衛門を中心に綱造、勝太郎など、人形は長老の辰五郎以外は、当時中堅ながら人気の花形スターだった2代桐竹紋十郎とその弟子たち(後の2代勘十郎、3代簑助ら)といった顔ぶれで、こちらも手薄である。こうして、戦後の会社側=因会(ちなみかい)派と 三和会派の二派に分かれた文楽の不幸な対立時代が昭和38年、松竹が経営難から文楽を手放して財団法人文楽協会が発足するまで続くのである。
 三和会は松竹系の地方劇場からも締め出され、文化会館や公民館などで地方興行を続けるが、そのうち東京と大阪の三越劇場を使えるようになり、東西に拠点ができたが、そのほとんどが旅興行であり、単身赴任同様の生活が続いた。一方、松竹は因会を擁して文楽座で興行するが、31年、道頓堀弁天座跡に千数百人を収容する文楽座を新設しそちらに移る。しかしながらこの劇場は、松竹が文楽を主としながら、他の演劇にも使えるように設計したもので、2階席、花道がついており、文楽専用劇場としては不適切な劇場であった。文楽では手摺りを地面と見なすので、手摺りより下の方が丸見えになる2階席は客席として不適当であり、人形の大きさから考えて、五〜六百人が適当な収容人数である。(御霊文楽座も四ツ橋文楽座も五百人程度)千人も入る劇場では、後ろの席からは人形の細かい動きがほとんど見えない。それでもこれは文楽のためにできた劇場であり、文楽協会発足の後も劇場名を朝日座と改めて、昭和58年に国立文楽劇場が完成するまで文楽の拠点となる。
 昭和30年頃から、両派の合同公演の試みが行われるようになった。感情のもつれはありながら、もともと座員同士の対立から起こった分裂ではないので、次第に回数も増えていった。とはいえこの時代、地方公演が主であった三和会では、マネージャーを雇う余裕は当然なく、若手の座員が先乗りして、興業契約が成立すればそちらへ移動する、長老までもが大きな荷物を運ぶという、大変な時代であった。あれから四十年以上が経過して、三和会の時代を詳しく知る技芸員は人間国宝の竹本住大夫と吉田簑助ぐらいになってしまった。「今の人はあんな苦労はようせんやろう。」と住大夫は言う。
※戦後部分から、「たゆう」の表記を「太夫」から「大夫」に改めた。紋下の山城少掾が、同じ義太夫でも、歌舞伎役者の間に合 わせて語る太夫(チョボ)と、文楽の大夫は区別すべきだと提唱 し、以後文楽では「大夫」と表記するようになったためである。

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