≪最新の記事10件≫
2014/05/01 [4 月号]新社会党広島県自治体議員活動
2014/05/01 [4 月号]時言
2014/05/01 [4 月号]「昭和」史の中のある半生(24)
2014/05/01 [4 月号]「戦争をさせない1,000人委員会」呼びかけ
2014/05/01 [4 月号]翼
2014/05/01 [4 月号]見え透いた嘘
2014/05/01 [4 月号]新社会党広島この一ヶ月の動き
2014/05/01 [4 月号]「チェルノブイリデー」に参加
2014/05/01 [3 月号]時言
2014/05/01 [3 月号]「昭和」史の中のある半生(23)
5月社会主義の歩みと将来への展望第70回
2010/05/21

社会主義の歩みと将来への展望
個人の尊厳と自律的連帯を求めて
第70回 東欧共産圏の崩壊 下   
 広島大学名誉教授 北西允

1985年以降、隣国のポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアでソ連型共産主義からの脱却が相次いだにも拘わらず、東独のE・ホーネッカー(1912〜94)を頭とする社会主義統一党(共産党)政権は、ひたすら既存体制に執心していた。しかし1989年、ハンガリーがオーストリアとの国境を開放し、チェコスロバキアもそれに倣ったため、体制に不満を抱く東独市民は、両国を経て大挙西側に流れ込んだ。それによって東西冷戦の象徴だった「ベルリンの壁(1961年構築、その後順次補強)」は、事実上その存在理由を失った。ホーネッカーは、それでもなおソ連に期待を寄せ続けたが、10月に東独を訪問したゴルバチョフに冷たくあしらわれ、遂に「壁」の解体を受入れざるをえなかった。政権は崩壊し、1990年、東独は西独による吸収合併という屈辱を味わうことになる。
 ルーマニアは、東欧共産圏に属しながらもソ連とは一線を画し、ワルシャワ条約機構軍による「プラハの春」圧殺にも参加せず、西側資本に門戸を開くなどユニーク政策を採っていた。それは同国が産油国であり、ソ連の統制下ではいつまでも農業主体の経済から脱却できないと考えたからであった。だが一方、大統領N・チャウシェスク(1918〜89)は、時代錯誤の個人崇拝を国民に強制しつつ過酷な圧政を続けた。近隣諸国で政変が進行する中、1989年12月ルーマニア西部のチミショアラで発生した反政府デモと治安警察との衝突は、数日後、首都ブカレストの官製集会に飛び火した。チャウシェスクの演説に最初は拍手を送っていた民衆が、突如烈しいブーイングを浴びせかけた。大統領はたじろぎ、治安部隊が発砲して事態を収拾しようとしたが果たせず、翌日、群衆は共産党本部に雪崩れこんだ。チャウシェスク夫妻はヘリで逃亡を試みるが、ほどなく国軍に逮捕され、略式裁判の後、直ちに銃殺刑に処せられた。代わって「救国戦線」が政権を掌握したが、この政変は支配層間の権力闘争の臭いを漂わせていた。
 ユーゴスラビアは、多民族から構成された連邦国であった。1943年にユーゴスラビア民主連邦として建国を宣言して以来、殆どソ連の軍事力に頼ることなくナチスを撃退したパルチザンの名将、J・チトー(1892〜1980)の指導下に、1946年に連邦人民共和国、1963年には社会主義連邦共和国と改称した。チトーは、元々マルクス=レーニン主義者だったが、ソ連への追従を潔しとせず、独自の自主管理社会主義体制を急造してソ連に対抗した。彼はまた、インドのネルー首相らとともに非同盟・積極中立主義の旗手として国際的にも活躍した。チトーのカリスマ的権威によって辛うじて保たれていた連邦構成国の絆は、彼の死後、各共和国における民族主義の高揚によって次第に断ち切られていった。六つの共和国、四つの言語、三つの宗教、二つの文字によって構成されていた連邦は、武力闘争を含む民族紛争を繰り返し、社会主義を放棄して2006年までに完全に解体を遂げたのである。


Olive Diary DX Ver1.0

Copyright © April,2005 新社会党広島県本部