≪最新の記事10件≫
2014/05/01 [4 月号]新社会党広島県自治体議員活動
2014/05/01 [4 月号]時言
2014/05/01 [4 月号]「昭和」史の中のある半生(24)
2014/05/01 [4 月号]「戦争をさせない1,000人委員会」呼びかけ
2014/05/01 [4 月号]翼
2014/05/01 [4 月号]見え透いた嘘
2014/05/01 [4 月号]新社会党広島この一ヶ月の動き
2014/05/01 [4 月号]「チェルノブイリデー」に参加
2014/05/01 [3 月号]時言
2014/05/01 [3 月号]「昭和」史の中のある半生(23)
2010.3月社会主義の歩みと将来への展望
2010/04/16

社会主義の歩みと将来への展望
個人の尊厳と自律的連帯を求めて
第68回 ゴルバチョフの「改革」   
 広島大学名誉教授 北西允

 ソ連ではスターリンの死後、フルシチョフが一定の非スターリン化政策に乗り出したものの、守旧的な党・国家官僚の抵抗、キューバ危機に関する対応のまずさ、農業改革の頓挫によって1964年に最高指導者の座を追われた。その後を襲った守旧派のL・ブレジネフ(1907〜82)らが支配した18年間は、「沈滞の時代」と呼ばれるように、ソ連の内外政策において見るべき改革は、なにも行われなかった。それに加えGDPがアメリカの半分程度のソ連が、激しい核軍拡競争に曝され続けたことは、民生を一層著しく圧迫するようになった。東欧諸国で噴出した「民主化」の嵐は、やがて社会主義体制を崩壊に導く勢いさえ見せていた。内外政策の早急な改革が急務となった。そこに登場したのがM・ゴルバチョフ(1931〜)である。
 1985年3月、ソ連共産党書記長の地位に就いたゴルバチョフは、まず党人事を一新し、「改革」への布石を打った。彼が主導した1985年から91年に至る「改革」は、ペレストロイカ(建て直し)、グラスノスチ(情報公開)、新思考外交の三点に要約される。それらについて詳述する紙幅はないので、本稿では要点を摘記するにとどめる。
 ペレストロイカの経済面では@軍事支出の削減と民需部門への投資拡大、A中央集権的で硬直した計画経済の是正、B技術進歩とその実用化による経済活動の活性化、C禁酒政策を含む労働者の勤労意欲の向上、C対外貿易の有効利用が図られた。政治面では@共産党と連邦政府間の権力の分離、A結社の自由と複数政党制の容認、B国家の最高機関としての「ソ連人民代議員大会」の創設、C従来の最高会議幹部会議長(国家元首)に代わる「大統領職」の導入(自ら初代大統領に選出される)等の施策が採用された。
 1986年4月に発生したチェルノブイリ原発事故を外国政府から初めて知らされたゴルバチョフは、グラスノスチ(情報公開)の必要性を痛感し、従来の秘密主義、言論統制の排除を積極的に推し進めた。@言論・思想・集会・出版・報道の自由の保証、A過去の事件・事実の再評価と反体制学者らの釈放、B「共産貴族(ノーメンクラツーラ)」の生活実態の暴露、C海外航空ショーへの最新鋭機の出品等に見られる軍事機密の一部公開、がその内容である。
 新思考外交の範疇には、@「ブレジネフ・ドクトリン(社会主義諸国の主権は絶対的なものではなく、社会主義圏全体の利益が優先され、内政干渉もやむをえないとする制限主権論)」の放棄、Aアフガニスタンからの撤兵、Bアメリカとの中距離核兵器全廃条約の締結(核軍備管理ではない最初の核軍縮条約)、C訪中による中ソ関係の正常化、Dレーガン米大統領とのマルタ島会談における東西冷戦の終結宣言が含まれよう。
 ゴルバチョフ自身には、社会主義やソ連邦を解体する意図はなかったと思われるが、上記の「改革」は、上からの改革であり、常に旧勢力との激しい葛藤の中で遂行された。そのため、彼の「改革」には、しばしばゆれが生じ、一貫性に欠けるところがあった。ゴルバチョフが最終的にどういう社会、連邦、国際関係の実現を意図していたのかは、必ずしも明確ではない。

Olive Diary DX Ver1.0

Copyright © April,2005 新社会党広島県本部